防災士になった理由 ~ 阪神大震災の経験から

兵庫県の宝塚市で育った私は、1995年1月17日、神戸商船大学(現 神戸大学海事科学部)在学中に、阪神淡路大震災に遭遇しました。
地震により、たたき起こされる形となった、早朝、すぐに家の外に出てみると、東の空は冬の早朝という事もあり、まだ暗い夜空でした。
が、対照的に西の空は赤く燃えるように明るくなっていました。
これは神戸の長田区等では、地震による大火災が発生したためです。

当時は、地震と火災が結びつかず、また、早朝の大地震という事もあり、これが地震だと認識するには、寝起きの体には少しの時間を要しました。
震災直後は、都市部を中心に、断水に加え、ガス・電気・電話・鉄道や道路といった、いわゆるライフラインは途絶していました。
学校・公民館・公園や駐車場などは、臨時の避難所となり、多くの被災者が不便な避難生活を強いられる事となりました。

とはいえ、地震発生から、3か月もすると、徐々にライフラインも復旧し、仮設住宅の建設も始まりました。
表面上は復旧・復興へと走り出し、また、多くの学校では、仮設校舎の利用等も含めて、1995年4月からは授業も始まりました。その後、私は、社会人となり、結婚もし、仕事と家庭に追われる生活となり、また、阪神間の街並みも外見的には、阪神大震災前よりも美しくなっていき、いつしか、そういった出来事も、思い出となっていきました。
しかし、先日の東日本大震災を目の当たりにし、あの時の記憶が甦りました。
大地震によって、揺らされるビル群に加え、阪神大震災では無かった大津波にのまれていく東北の建物・車・人。私は、テレビでその光景を見ているほか無かったです。
その悔しさ、寂寥感からか、ふとした時に、 「大人になり、会社の社長にもなった。何か、できないのか?」 と考えるようになりました。そんな際、以前よりの取引先でもある大学生協様より、一人暮らし向けの学生に向けて役に立つ商品を考えて欲しいとの要望があり、非常持出袋を商品として販売する様になりました。
さらに非常持出袋を一般家庭や企業にも広めることにより、大学生のみならず社会に貢献できるのではないか?と思う様になりました。阪神間では阪神大震災の起こった1月17日が近付くと、備蓄の重要性や震災対策が、テレビや新聞で特集されます。
私は、防災士の勉強をし、また、阪神大震災の経験を活かした本物の非常持出袋を作る事で、社会に貢献する事を誓いました。